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ライフ イズ ビューティフル

執筆者の写真: vintage20211975vintage20211975

あけましておめでとうございます。

ブログ担当の及川です。昨年末、社長へ弊社のSNS用に挨拶文を依頼したところ、想いの詰まった文章が届きました。

少し長いので、お時間に余裕のある時にじっくり読んでいただけると幸いです。

それでは、お読みください。


うちの爺ちゃんはカリスマ性に満ち溢れた明治生まれの孫に優しい爺ちゃんだった。

象牙のようなパイプでタバコを蒸し、傍には痰壷を置き、朝はインスリンをお腹にぶち込み、水戸黄門には拍手を送る、海と菊を愛する男だった。僕が高校1年の時、春の夕方に家で心臓発作を起こし突然亡くなった日から30年。この頃よく、頭に浮かぶ。


ホタテの新しい養殖の方法を見つけ、惜しみなく同業に伝えたそうだ。金借りには返さなくていいからと少しのお金を渡し、お寺に奉公し、家族にはお金は残さないとその通り、あるのか無いのか孫は分からないままこの世を去った爺ちゃんは、おそらく悔い無く生きた性分であった事だろう。豪快な笑い顔しか思い浮かばない。


完璧な婿殿だった。


親父は理系の秀才肌サラリーマンだった。

心臓が弱かったために成し得なかった野球道を息子に託した。

計算が得意であったはずも情に任せた故、詐欺師に騙され個人資産を水に流した。やがて詐欺師は逮捕されたが、その頃親父は倒れ、人の顔以外の記憶は全て無くして、後にこの世を去った。40年勤め上げた会社の記憶を無くしてしまったベッドに横たわる親父の姿は、今でも脳裏に焼き付いている。僕が28歳の時に親父の尻を拭いた時は、言葉にできない感情だった。レストランで喉を詰まらせたり、車に乗せて見せた景色にはしゃぐ親父の、子供のような姿は今でも忘れない。


介護に疲れて泣き叫ぶ母親と叫ぶ親父を宥めた夜中。両親が健在な家庭を恨めしく思う時もあった。やがて親父がこの世を去り、施設生活とのギャップの無さに慄く我々家族の感覚。インフルエンザやコロナで会えなくなっていた生活は、我が家にも大いに変化を与えていた事をしみじみと感じている。


親父が倒れて間もなく、僕は会社との折り合いがつかなくなって退職した。

心無い、社長の一言が原因だった。

その当時、親父の入院していた気仙沼の病院から付き添いの足で大船渡に出勤していた。

限界までの3ヶ月の間、家族も限界で生まれて初めて家族会議をした。その当時我が家の家族は義理の家族も含め母親まで5人の障害認定を受けて生活していた。親世代は全員障害者の認定を受けて生活していたのだ。なかなか稀だと思う。


下の子が1歳の頃だった。


会社を辞め、独立を決めた。

師匠達には無理だから戻ってこい、と言われたが、一度退いた足を戻すわけにはいかないのでそのまま独立する事を決め、銀行に初めて経営計画を文字に起こし、お金を借りに行った。28歳だった。300万借りたのが始まりだった。


「計画書を持って借入希望に来た人は久しぶりだ」と笑っていたのを覚えている。

初めて銀行でコーヒーを飲んだ日だった。


その時は、親父が仲良くしていた支店長代理の方に世話になった。とにかく名刺を配って歩きなさいと助言を受け、プリンターでズレまくった名刺をとりあえず作っては使っていた。それから地元で僕が内装屋だと周りに確実に認知されるまでは、かなりの時間がかかったと思っている。インターネットもまだ普及半ばの時代、現場と家の行ったり来たりではそう簡単には自分を認知させるものでは無かったと認識している。震災前の不況時代。仕事は年々少なくなって焦っていた。どんな安い仕事でも休まず働いた。


子供行事も、徐々に行かなくなった。


地元に居ながらも家族の死に目にも会えず、時には喪服で道具を下げに現場に行った事もあった。

とにかくお客さんに迷惑をかける事だけは嫌だった。ギックリ腰の翌日も現場でホウキを持ってただ立っている方が心が安心した。インフルエンザも寝室と現場の行ったり来たりだからと、誰にも会わない現場に通いこなしていた。今思えば、ただの無茶だったがあの頃は必死だった。




震災が起き、町は消えた。


尽力を注いだ多くの建物が流され無くなった。


役所の先輩の手伝いしてたらそのまま臨時で雇ってくれないかなと、邪な考えを持った時もあった。銀行流されたからローンもチャラにならないかなと皆んなで話した時もあった。放射能が怖いから北海道まで行こうかなとまじめに考えた事もあった。


時は流れ、公園では卒業式が行われ、4月には小学校は始まり、気がつくと、当たり前のような一年のサイクルをまた、皆が求め始めていた。普通を早く戻したかったんだなと思う。


震災で変わったのは町だけではない。町という単位の人々も変わった。価値観は露呈され、良い事も悪い事も、外に出れば出る程見えていた。もともとあったものか、今だからそうなったのかはわからないが、人々の生活が変わり、人間関係も大きく変わったような気はする。個人の見解だ。僕がただ逃げただけなのかもしれない。震災が無ければと考えたくはないが、もう一つの人生は確かにその先にはあった事だろう。


あくまで人生は、一本の道の上にしかない事をまざまざと感じた時代だった。


町の復興に合わせて、仕事は年越しに増えていった。休む間もなく、先輩職人方、60前後の皆さんは倒れる人が続出した。僕は倒れることは無かったが、まさに馬車馬の如く働き尽くした。24時を越える残業など、珍しくもなかった。むしろそれも楽しむくらい麻痺した生活だった。


それでもお金は残らなかった。


家を流された人と流されなかった人の差が明確だったからだ。全てを買い戻すのには、とてつもない労力とお金が必要だった。僕ら被災者の全てが補助金で賄えたわけではない。当時の保険のシステムそのものが今とは違うのだ。


10年が過ぎ、あらゆるものが節目を迎え、いろんなものが止まった。それに気づき始めたのは、浅はかなことに9年目を迎えた頃かもしれない。朧げに、いつまでも続く復興景気ではないと口にはしていたが、これと言った計画も立てず過ごしていた事は否めない。なんなら前の町より何か新しく良くなるのかも、という前提で生きていた節もあったかもしれない。「前向き」という謎の補償に浸っていたのかもしれない。


そして10年目に入り、忘れていた震災前のような悪い意味での静かな町の景気が徐々に見えてきて、猛烈に焦った。


「あの頃より暇になるぞ」と


どこからともなく聞こえ始めた。


今までに無いくらい暇な12月を迎えた時、仙台に飲食店を作る事になり、今の形へと一気に進んでいく事になる。




コロナ真っ只中の仙台。1月2月とリスク承知で、ホテルに滞在しながらお店を作った。その頃にやり取りする事になったのが今やり取りしている企業だった。相談したのが同級生でもある代表であり、現場をこなしてくれたのが12月から我が社に入ったスタッフだった。偶然にもバンドマンだった事もあり、何となく気心が近かった。オープンとコロナ禍と様々な要素がある中で悩み倒した工事だったが、無事にオープンし、今はスタッフを増やしたいくらい忙しくやっている。



そこから僕のホテル生活は本格的になった。


地元で限られる現場をこなしながら、半月、20日、ほぼ1ヶ月と、ホテルに貢ぎまくった。3ヶ月で70万近くをビジネスホテルに費やし、仙台での内装事業への参入きっかけを探っていた。


仕事をし続けなければ成り立たない生活を送る中で、仕事が限られてくるというのは死活問題だった。もはやエリアの問題ではなかった。仕事があるエリアで仕事をしたい。僕の中ではごくシンプルな発想だった。距離は車で2時間。盛岡も、仙台も、家からは同じ距離。昔は3時間かかったものが2時間切るようになったのは、明らかに三陸道の存在が大きかった。コロナ禍とはいえ、先入観でチャンスを逃したくなかった。


現場、コンビニ、ホテル。


この生活だけで数ヶ月過ごしたのは、僕の最大限のコロナ対策だった。何かが動き出す前に動きたかった。それが本音だ。1ヶ月前の売上が、生活してる月の力量を決めるため、枯渇してから気付いては、枯渇した時期がどんどん後ろに伸びていく。それでは今の自分は生きていけない。


僅かながら残しておいた資金を、全部使って会社を設けたのは7月。信頼おける友達一人一人に声をかけて集めたのが始まりなので、法人を作ったという感覚は薄いかもしれない。


勝手な冒険だけど、付き合ってもらいたい。


「不安定」という日々の中で信頼を得る事の大変さ。僕は17年間一人だった。何事も自分の出せる答えだけで進んできたから、失敗しても誰にも迷惑をかけなければ、逆に全てが正解という世界。そこに安息さえ感じていたが、同時に一人の限界も感じていた。


もっと仕事を伸ばしたいと思ったのは、つい最近の事で、そのきっかけはおそらく、震災で様々な団体に関わった事が大きかったと思う。企業、イベント開催、NPO、慈善事業など。あらゆるものに関わってきた中で、自分の理想を見つけたり、理想が叶わない事などを経験して、今まで混沌と考えていた事を具現化できる機会が訪れたような気がしていたのだ。個々の良さを引き出して、仕事、利益に変える活動をしたいと昔から思っていた事だった。

それから世に言う、パワハラ、セクハラ等で失職してきたような人などに、改めて仕事というものに素直に向き合えるような生活を取り戻させたい。そんな思いも、だいぶ前から抱いていた。


極めてアナログな世界だ。


時代がどんなにテクノロジーで溢れていても、我々のようなスモールカンパニーは、卓越したデジタル技術や資産でも無い限り、少人数であぐらをかいて仕事をするわけにはいかない。身体も時間も削って費やして、もがきながらコツコツと積み上げていくしかない。その中で最も必要なものは、お互いの信頼しかないのだ。それが成し得た時、そこから初めて利益という形で能力が覚醒していく事だろう。今はまだそこの地固めの段階である。そこから先は未経験だ。人生をかけて壮大に賭けをしているのと変わりはないだろう。


開業してからは、月に20現場以上こなしながら皆んなで頑張ってきた。半年でおよそ100以上の現場をスタッフ皆んなでこなしてきた。それは、この半年生きてきた自負としてみんなに持っていて頂きたい。数こそが説得力を生む世界である事は間違いない。僕は一人でおよそだが20万mほどの壁紙、他にも床材やカーテンなどに携わってきた。現場の数はもう把握はできない。数え切れないほどの数の現場に携わってきた。それでもこの仕事を辞めないのは、生活だけでなく、この仕事の面白さがあるからに他ならない。


技術も知識も惜しみなく伝えていきたい。

甘いと言われても信用したい。

少しの可能性があるならチャレンジしたい。


今のスタンスだ。


会社とスタッフに信頼さえあれば、あとは皆がそれぞれ切磋琢磨してくれる。僕の結論は次の一言に尽きる。


子供じゃないんだから。


冷たい言い方に聞こえるかもしれないが、僕は大事にしている。今までの人生経験が生かされるのであれば、少なからず生きてきた常識さえ仕事に注ぎ込めば、いろんな事は無事にクリアできるはずなのだ。だから僕はあまり事細かくしたくない。というのが素直な気持ちだ。そしてヴィンテージのスタッフは、それを確実に形にしてくれている。


ありがとうの言葉だけでは言い切れない感謝の気持ちでいっぱいだ。


仕事からのプレッシャーは、半年経った今でも変わらない。でも僕を取り巻く環境は、ホテル暮らしのあの頃とは変わった。一人ではない。パーティーになったのだ。同じ思いが街のあちこちで活動してると思った時、僕はたまに車を走らせながら誇らしくなる。それがきっと会社の頼もしさなんだと思う。それを今年は外にも感じさせていくのが僕の仕事だ。


ヴィンテージという名前の意味は、ワインからくる語源を引用させて頂いた。


当たり年。今年のワインは良い。その年のワインの事をヴィンテージワインというらしい。


僕らが現場に行った時、僕らに仕事を依頼した時に、良い人達と知り合ったなと思ってもらいたい。そんな思いで付けた名前でした。ちょっとお洒落だし、良いなと。笑


有り難くも、ヴィンテージさん!と言って慕ってくれる業者さんも増えてありがたい気持ちでいっぱいだ。嫌っている方もいるだろう。どちらを取ってもこの半年動いてきた軌跡として、大事にしていきたい。人の数だけストーリーは生まれる。今年起こる様々なストーリーに、会社全体で向き合っていきたい。


46歳にして、僕は車で2時間の街は飛び出した。



これがこれからどう転がるのかわからないが、じっとしていられなかった僕の性分。遅かれ早かれアクションは起こしていたと思えば、おそらく周りは理解している事だろう。とはいえ、明日のことなんて誰にもわからない。答えを出すのは、いつだって自分なのだ。成果で答えを具現化したい。こと仕事に関しては、それしかないのだ。



挑戦はまだ始まったばかり。やれる事はまだまだある。限界を決めないで、新しい事にチャレンジしながら周りの人たちに還元できる生き方をしていきたい。今年の目標はあくまで、無事に来年を迎える事だ。その中身を熟成させながら新しいものを作っていきたいと思います。


今でも自分のライバルは家族だ。家族に尊敬されるような人間になりたい。天人と呼ばれた曾祖父さんみたいになりたい。昼行灯でいい。


社員の家族の生活が満たされるような組織を作りたい。ブラックorホワイト。今はよく耳にする言葉も大事だが、通いたくなる会社じゃなければ意味が無い。人生の大半を費やす仕事時間を、いかに生き生きと過ごしてもらえるか。健康でいられるか。あまりにもアナログかもしれないが、デジタルの前にアナログがあるわけで、まずはアナログな部分を徹底的に追求していきたいと思う。


不器用な社長でごめんなさい。


不器用な会社でごめんなさい。


でもそんな僕らに少しでも興味があった時は、何かしらでアクセスしてみて下さい。笑


2022年もよろしくお願い申し上げます。


仕上げて渡す仕事は、何度でも味わいたくなる快感がある。綺麗になって喜んでくれている時のお客様の笑顔だ。僕がこれまでやってこれた醍醐味は、そこに尽きます。それがなければ、ここまでやってくる事はなかったかもしれない。仕事というのは、誰かが喜んでくれた時に初めて成立するものだし、それが施主さんだったりするのは、この仕事の特権であろう。厳しい世界だからこそ、その喜びもひと塩なのだ。そこは会社で共有していきたい。


いい大人が、泣きながらこれからも仕事していきましょ。笑


何年経っても飽きない空間を、一緒に作っていきましょう。




取締役社長

菅野

 
 
 

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